居庸関(きょようかん)
居庸关 / JuYongGuan / ジーヨングゥワン
北京から50キロの昌平県に位置する居庸関は、6千キロにわたる万里の長城の中でも北京防衛の最後の要となる最も重要な要塞とされ、古来から兵家の必争の地とされてきた。
居庸関の名前の由来は、万里の長城を築く際に衆人や兵士、徴用された農民などをこの付近に住まわせたという意味の「徒居庸徒」という言葉から得られたと伝えられている。
春秋戦国時代に当時の燕国が居庸塞と呼ばれる関所をこの地に置いたのが始まりとされていて、その後漢の時代にはすでに巨大な要塞が築かれていたとい言われる。南北朝時代には万里の長城と要塞が連結されるようになり、以後、唐・遼・金・元など歴代王朝もこの地に守備隊を置いていた。現存の規模としての居庸関は明朝を興した洪武帝(朱元璋)がモンゴルの再度の侵略を防ぐ為、1368年(明の洪武元年)に大工事を行って整備したものである。
清朝に入ってからは国土の拡張により、その重要性を失った居庸関は次第に荒廃していったが、1990年代に入り観光地としての修復が行われ、明の時代の雄姿が再現された。また近年、居庸関から左右の山々に延びる長城も整備され、観光客は中国随一と言われた要塞の全貌を体感することが出来るようになった。
居庸関の中心には、道路を跨ぐように築かれた仏塔の台座が残されて雲台と呼ばれている。造られたのは1342-1345年(元の至正2-5年)で、当時は3基のラマ塔が建てられていた。漢白玉(大理石の一種)を用いた巨大な台座は高さ10m、幅27mあり、中央部分はアーチ型のトンネルになっている。特に有名なのはトンネル壁面に刻まれた陀羅尼経文と造塔功徳記(塔を造営する由来を記した文章)で、サンスクリット文字・チベット文字・八思巴(モンゴル)文字・ウイグル文字・西夏文字・漢文の6言語で書かれていて「居庸関六体石刻」と呼ばれている。特に西夏文字については長い間解読がなされなかったが、日本の学者・西田龍雄がこれをもとに解読を行ったことは有名。